豊臣家存続を考える(その3)
その2では関ヶ原の戦いで西軍の勝利を確定するための条件と、西軍勝利後の政治体制について考察してみました。
今回は関ヶ原の戦いが長期化した場合における豊臣家の存続する可能性を考えてみたいと思います。
その2で述べたとおり、「西軍の勝利」を確定するためには、東軍の中心人物である徳川家康を討ち取ることが絶対条件です。では、関ヶ原の戦いで家康を討ち取れる可能性はどのぐらいあるでしょう?
現実の関ヶ原の戦いでは西軍敗北後、石田三成、宇喜多秀家など西軍の主要な武将は戦場からは無事に撤退しています。島津義弘は圧倒的多数の東軍の軍勢と正面切って戦いながら撤退するという離れ業を演じ、無事本国に帰還しています。
これらのことから考えても三万の直属軍を率いていた家康をこの戦いで討ち取ることのできる可能性はゼロに近いと思います。
では東軍が「関ヶ原の戦い」で敗北した場合、その後の動きはどうなるでしょうか?
当然ですが、今後は家康が生存していると言う前提で話を進めます。
この場合、地方の動きを見る必要があると思います。
まずこの戦いが起こるきっかけとなった東北地方ですが、この地方に中央の情勢を変化させるほどの動きがあるとは考えにくいものがあります。
例えば上杉家ですが、石田三成と直江兼続の間に密約があったと言う説がありますが、これは後世の創作だと見る方が妥当だと思われます。もし密約があったとすれば、兼続の行動は上杉家を危うくする行動であった事は誰が見ても明らかです。密約の結果、主家の領地を大幅に減らした兼続の上杉家内部での発言力は相当低下したはずですが、そのような様子は見受けられません。勿論、主君景勝の認可(黙認)があったとすれば話は違いますが、毛利家で吉川広家が独断で家康と密約を交わし、関ヶ原戦後に毛利家内部での発言力が低下したことを考えてみれば明らかだと思います。
この地方の動きが中央の動きに影響を与える可能性はただ一つ、上杉軍が家康の本拠地の江戸を目指して進軍することしかありませんが、上杉家にとっての「関ヶ原の戦い」は密約説が後世の創作だと見る方が妥当だと考えると、防衛戦争だと言えると思います。その根拠としては、転進した家康軍に対して追撃をかけなかった事実を見れば十分だと思います。そのことを考えれば、上杉家が江戸進軍をする可能性はかなり低いと思われます。
私は上杉家以外の東北地方の大名の動きを考えて見ても、大きな動きがあるとは考えにくいと思います。
では、中央の情勢に影響を与える可能性のある地方はどこでしょうか?
私は九州に注目したいと思います。九州で注目すべき存在は黒田と島津の両家でしょう。黒田は東軍、島津は西軍と見ることができますが、島津には積極的に動く意志があるとは思えません。その証拠としては関ヶ原で島津義弘が率いていた兵力を見れば明らかだと思われます。また、島津義弘が率いていた兵の中には無断で本国を出発してきた者が多数含まれていたという事実もあります。
黒田如水は東軍として西軍に加わった武将達の留守城を次々に陥落させていきました。このままいけば九州で如水の動きに制約をかけられる勢力が存在しなくなることは明らかです。実際、関ヶ原の戦いが長引けばそのようになるところでした。史実では如水が九州を完全に制圧する前に関ヶ原の戦いが終わりましたが・・・
そして、如水が家康に対して忠実であるかどうかはかなり疑わしいモノがあると思います。実際、家康は如水の軍事行動にストップをかけました。しかし家康が関ヶ原で敗北したとすれば、如水はほぼ確実に九州地方を制圧し、その後中国地方に進軍を開始する事は十分に考えられることです。
そして、如水が中国地方に進軍を開始した場合、中央にいる毛利軍は当然の事ながら本国へ帰還する事になるでしょう。その場合、西軍は総大将を失うことになるため統一した軍事行動をすることが今まで以上に困難になり、また、兵力の不足にも悩まされることになります。中国地方での戦いの勝敗まではわかりませんが、中央の戦線が膠着状態に陥ることは明らかだと思われます。
このような状況になれば戦国時代における足利家がそうであったように、精神的カリスマを持つ豊臣家は生き残りのチャンスが増えることになると私は思います。